タタミのあなみずのブログ

あなみずの施工例や暮らしに役立つ情報をご紹介します。

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「お客様からの話しから」 大事な物・独り言

「お客様からの話しから」

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畳は安い?

最近よく畳は髙いですね?と言う人が多い。要は畳に対して関心が無いことが解る。なにをもって高いと言っているのかは解らないが、要は畳の存在が理解できないのではないかと思う。

畳の良さは「ゴロゴロ」出来るでしょう。家の中での色々な場面に対応できるでしょう?また、畳のリビングとして使えるでしょう?昔からの日本人の知恵なんです。

なぜ、畳の良さを感じないのですか?今、多くの外国の人が日本に来ていますが、和の文化を望んでいます。

日本人は、もっと畳の良さを知って下さい。 お客様からの話しから

お金のことを言うと、例えば畳の6畳を表替え(表面・ゴザ)すれば、一枚10,000円として、5年使うとして、
例、10,000円×6畳 計60,000円+消費税4,800円 合計64,800円
64,800円÷60ヵ月(5年) 月々1080円です。日割(1825日)だと35円50銭
日割(1825日)だと45円50銭の物だと計算すれば、一枚13,700円の畳表が使えます。

毎日使っている。水道代や電気代に比べてみて下さい。必ず畳は安いはずです。
一年間
タバコ代   一日一箱(420円)×毎日(365日) 153,300円です。
缶コーヒー代 一日一回(120円)×毎日(365日) 43,800円です

身近な携帯電話の話しから言えば、携帯電話の月々の使用料金を考えれば遥に高いのが解る。いや、電話は用があっての使用であれば安いのだが、用事もないのに無駄な電話やインターネットを使えば利用金は少なくても月々2500円?位はなるはずである。

月々2500円?×60月(5年) 150,000円です。

このような言い方をすれば、畳は安いはずです!!
賢く考えてみませんか?

畳の上で「ゴロゴロ」してみませんか?
畳をリビングとしてくつろいでみて下さい。



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『犬馬の養い』 こんな言葉を知っていますか?  大事な物・独り言

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最近、新聞が悲しい家族のことを伝えております。それは子供を殺める記事が多く見受けられます。

こんな言葉を知っていますか?

『犬馬の養い』  論語 けんばのやしない

犬馬の養いとは、家畜に餌を与えるのと同じように、親を養うのにただ衣食の面倒をみるだけで、うやまう気持ちがないことのたとえ

『犬馬の養い』の解説
生活に必要なものを与えて養うことをいう。それは犬や馬を飼うのと同じことで、親を敬う気持ちが無くては人と動物の違いはどこにあるか? (とあるのに基づく) 

【私の思い】
日本人の住居には(『犬馬の養い』けんばのやしない)ように家族を守る精神をつい最近まで誰もが持っていたはずです。ちょっと変な解釈かもしれませんが?
日本人には畳は必要不可欠であると思います。家族を養しなう場所は畳部屋が一番です。それは、日本の風土、四季折々や生活習慣、家族を思えば、畳の生活は、心の距離を縮めることができると思います。また、肌に触れる優しさが畳の上が一番良い場所と思います。

【養う】とは    「養う・やしなう=育てる・そだてる」
1 自分の収入で家族などが生活できるようにする。扶養する。
2 衣食などのめんどうを見ながら育てる。養育する。(孫を大切に・・・)
3 食物を与えて飼う。(家畜を飼う)
4 育て蓄える。力や習慣をしだいにつくり上げる。(英気を・・・)(日ごろからの実力を・・・)
5 療養する。養生する  (病気・・・)
6 子供や病人などの食事の世話をする。
7 養子にする。(跡を継がせる)

追伸
世界中どこの国でも、子供は親が育てるのは皆同じであるが、日本の場合は特に住まいを大事にして、親や地域で子育てをしていた。そのなかで畳の生活は、一か所でもそれぞれが工夫(食事・寝る・おもてなし)して使うのが日本人かも知れない。畳がきらいな日本人はいないはずである。
また、川の字で寝ることによって、親は子供を身近に感じとる良い習慣とされていた。

今でも、家族の居場所は畳の上で暮らすことを提案します。



畳が無くて困った話   大事な物・独り言

『畳が無くて困った話し』

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こんな電話がありました。
お客様から、「穴水さん、畳のリースがありますか?」と、問い合わせがありました。「実は一週間貸して頂けないでしょうか?」ハイ、ありますと答えたなら、「実は我が家は、畳の部屋をフローリングに変えてしまって困ってしまった」と言うことです。お聞きしたら「もう畳はいらないと思って知り合いの業者にリフォーム依頼した」と言うことです。

何故、畳をご必要なのですかとお聞きしたなら、「親父が亡くなり、今日の夕方病院から親父が家に帰ってくるのです。兄弟たちが我が家に親父を一時的に預かってくれと言われ、まだ通夜や告別式も決まっていないので、親父の居場所が無い」と言うことらしいのです。

そのご主人は親父をフローリングに寝かせるのは嫌な気持ちだから また、フローリングに寝かせるのが可哀そうになったそうです。人間最後は畳の上で死ぬと言うことを思い出したようです。お父さんは長く入院していてこのようなことにはなるとは気が付かなかったようです。

後日、ご主人からお礼の言葉を言われました。穴水さん「日本人の生活には畳が必要だ」と聞かされました。「一部屋でも残しておけばよかった」

今回のことを思えば、嬉しいやら、悲しいやら、複雑な思いをしました。


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余談
日本人だから四季折々や家の行事には畳の部屋は使うのが日本人の伝統文化であったはずです。大事なお客様を向かい入れるのは和室が一番ではないでしょうか?
畳の良さを一度考えてみませんか?




江戸のはなし    大事な物・独り言

話しは長いのですが、現在にも通用ようするはなしです。昔と今は違うと言う人がいますが、人間は変わっていません。でも環境の違いはありますが、人間の行動は変わらないように思います。

現在でも通用する は な し


■■杉浦日向子の江戸塾より - 江戸情緒に学ぶ 

 江戸のエコや風俗習慣などから、現代人は、エコという観点に絞っても学ぶところが多いと思っています。杉浦日向子の江戸塾から学ぶところは多く、話のネタとなります。エッセイ風というと大げさになりますが、独断と偏見で紹介してみたいと思います。

■■杉浦日向子の江戸塾 江戸時代にアイシャドーがあった 

 吉原へ行くときに、男はずいぶんファッションに気を遣ったようです。なにしろ外見で値踏みされるのですから当然でしょう。髭の先からつま先まで、練りに練ったといわれています。ファッション・コーディネーターよろしく、指南役がいるのです。
 
また、事前にジョークを仕入れておきます。中には手帳もどきモノをもっていて、20ものジョークを書いておいたそうです。その中で、花魁がいくつくらい喜んでくれるのかを楽しみ行くのです。本多髷(まげ)という髪型が流行していました。「本多にあらずば通人にあらず」といわれる程でした。
 
中剃りを耳のぎりぎり上まで剃りあげて薄く盛り上げる結い方です。耳の上がバーコードのようになるのだそうです。細い鶴の足のような髷を、鼠の尻尾のようにして、頭頂部にたらすのです。近年では珍奇に見えるのか、最先端に見えるのか解りません。そろそろと、すり足で歩かないと崩れてしまうほどだそうです。

眉毛は抜きあげて、細くし、剃った額に、青黛(せいたい)という顔料です。現代のアイシャドーに相当するようで、それをべったりと塗るのだそうです。それも剃ってすぐというのは粋ではなく、二日目くらい経って、ビロード状に生えた頭がカッコいいのだそうです。

江戸情緒に学ぶ  
 江戸のエコや風俗習慣などから、現代人は、エコという観点に絞っても学ぶところが多いと思っています。杉浦日向子の江戸塾から学ぶところは多く、話のネタとなります。エッセイ風というと大げさになりますが、独断と偏見で紹介してみたいと思います。

江戸のご飯は赤茶色
江戸下町の風景というと長屋住まいで、井戸端で女将さん達が選択をしたり、お米をといだりしていることを連想する人が多いでしょう。実は、江戸には「水道」がありました。しかし地中の鉄分を含んだ水が多く、赤茶色をしていました。水源では色は付いていないのですが、水道管が木樋であったために地中の鉄分が滲み込んでしまうのです。

当然その水でお米をといだり、炊いたりするのでご飯に色が付いてしまい、銀しゃりならぬ銅しゃりだったのかもしれません。もちろん、濾過をしたり煮沸したりしたのです。太い竹筒の節をくりぬき、そこに木炭や小さな砂利と石灰を入れ、そこに水を通して、濁り水のような水を色は完全には消せないものの透けて見えるようにはなっていました。

今日なら、さしずめコンビニやスーパーでペットボトルの水を買うのでしょう。実は、江戸っ子もペットボトルならぬ瓶買いをしていました。われわれがペットボトルの水を購入するようになったのはここ20年にい江戸子は瓶詰め水を配達してもらっていたのです。

 ■「一合野郎」とは?
 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」では、「一日に玄米四合と味噌と醤油と少しの野菜を食べ・・・」とありますが、江戸っ子は、どのくらいお米を食べていたのでしょうか?江戸っ子は、一日にお米を五合食べるのが一般的でした。これは、一日二食であろうが三食であろうが、一日のお米消費量は一定でした。すなわち一日二食の家庭では、一回に二合半を食べていたことになります。

そのために、どの家庭にも二合半の升があり、一人前のお米を食べられない人のことを「この一合野郎」と言って罵ったそうです。すなわち、半人前以下と言うことです。因みに、旧日本陸軍では、一日三食、麦飯2合と定められていた。それだけの米飯を食べないと肉体労働に必要なエネルギーを確保できなかったのでしょう。それからすると賢治の食事は質素であったと言えます。

食事は一日に6回?
江戸っ子は、その銀しゃりを毎日食べていました。地方の庶民は玄米を食べるのが普通な時代ですので、江戸庶民は贅沢をしていたといえます。玄米をつくことにより、「二分搗き」とか「五分搗き」というように玄米にランクがあります。最終的には白米になります。

白米、すなわち銀しゃりを毎日食べていたので、江戸っ子には脚気が多かったと言われています。そのために脚気のことを「江戸患い」といいました。ただし、三色銀しゃりを食べていたわけではなく、朝ご飯を炊いて、昼はメシ、夕食にはお茶漬けを食べていました。一日三食というのは江戸中期以降のことで、それまでは二食で足らしていました。江戸中期以降も二食ですごしている家庭もあり、一日何度食べるかは、その家の風習といえそうです。すなわち、一日に5~6回も食事をする家もあれば、一日一回だけのどか食いの家もあります。

三食のうち、昼飯が最も豪華で、すなわち昼飯は英語で言うとLunch ではなく Dinnerというべきです。ご存知のように夕食とはdinnerとsupper とふたつの単語がありますが、前者は「晩餐」と訳されることが多いように、一日のうちで最も豪華な食事のことです。すなわち江戸っ子の晩餐は昼なのです。

では、江戸っ子の晩餐(昼食)は、どのようなモノだったのでしょうか。晩餐といわれるゆえんは、昼食には焼き魚が付くので、たとえ冷めた飯ではありますが、時間をたっぷりかけて食事をします。

ご飯と飯はどう違う
「ご飯」という言い方は、誰でも使いますが、関白亭主が帰宅するや「メシ~ッ」と大声を出すという風景は近年はほとんど見かけなくなりました。ところで、「ご飯(はん)」と「飯(めし)」との違いは何でしょう。「メシ」というと上述の例が浮かびますし、品のない言い方のように聞こえます。しかし、この両者には誰にでもわかる違いがあるのです。
 
まず、想像がつくのは「ご飯は温かく、メシは冷たい」ということです。しかし、これは正解とはいえません。炊きたての銀しゃりのことを「ご飯」といい、それ以外は全て「メシ」です。すなわち、たきたてのごはんが冷めるとメシに降格になります。
 
「五目ご飯」という具が混じった食べ物がありますが、これは「五目飯」というのが正しい言い方です。銀しゃりだけが「ご飯」ですから、混ざりモノ、たとえそれが高価な松茸であってもご飯ではなく、メシとなります。

すなわち、江戸時代には、ご飯というのは、今日の赤飯とか、松茸ご飯問い言った食べ物のように贅沢品といえます。
火事と隠居がつくり上げた文化 江戸時代も後期に入ると、流行の源は役者から広まりました。

それまでは「十八大通」といった通人を気取ったお金持ちがファッションを自分で工夫をした時代がありました。
成金のまねを皆がしたのです。とりわけ、成金の二代目、三代目あたりがねらい目で、相当な贅沢をいていたようです。「何の役に役にも立たない贅(ぜい)」がおしゃれの極致だったようです。

これを見ても解るように、江戸の文化は商人あっての日本文化であることが解ります。ただし現役のうちは仕事に精を出して遊びにかまけてはいません。隠居してからのことです。

江戸文化を生み育てたのは、小唄、歌舞伎、盆栽、釣りなどです。いずれも隠居さん達が育て上げたものです。隠居は死ぬまで財産管理権を持っていたので、自由になるお金がたくさんありました。今日のシルバー世代でも、江戸の隠居さんにはかないません。

換言すると隠居が江戸の文化をつくり上げたとも言えます。江戸の「粋」や「通」の精神は、そこにあるといえますが、今ひとつ忘れていけないのが火事です。江戸には火事が多かったということは皆さんもご存知でしょう。

立派な建物を作っても火事ですぐに焼けてしまいかねません。そこで「江戸っ子は宵越しの銭は持たねぇ」という精神が醸成されたのです。京都には神社仏閣をはじめとした形あるモノが残っていますが、江戸はこのようなわけで形あるものではなく、「文化」を残したといえます。火事が少なくなってから本当の江戸っ子がいなくなったと言われるほどです。

江戸時代には、世界にも珍しいほど長い期間戦がなかったことも、独特の文化を花開かせることになったといえます

江戸遊郭のマーケティング  
江戸時代のファッションの発信地は吉原と京都の島原の遊女立ちであったようです。さしずめ、吉原は、現代で言うと「パリコレ」的な存在でありました。吉原というと遊郭のイメージが強いですが、そのようは娼婦街というよりは、現代のハリウッドのような、夢を生み出す所といえる程でした。

最上位の花魁(おいらん)は、ハリウッドの大女優と同じで、庶民は拝むような感じです。吉原へは、遊びに行くと言うより、自分に磨きをかけるために行くようなもので、行く前にはかなりのプレッシャーがあったといいますから、われわれの常識は覆される思いです。

吉原に行くには、柳橋のあたりから猪牙船に乗って行きます。もちろん陸続きですから歩いても行けるのですが「粋」ではないのです。吉原に入る前から、その人の「格」が試されているのです。そこに行く前にすでに出来上がっているので、すごい料理が出るのですが、ほとんど箸を付けないそうです。見栄の世界なのです。

江戸も宝暦年間(1751~64)位までは、花魁が華々しい時代でしたが、化政期(1804~30)に入った頃には吉原の権威は失墜し、高いばかりでそっぽを向かれてしまっていたようです。吉原に代わって、実質を重んじて、品川や深川のほうに客足が変化をして来ました。

この頃、遊郭の世界にマーケティングが入って来ました。客を離すまいと割引制度やクーポン券の発効などが行われたといいますから、マーケティングが実践されていたと言っても過言ではないのかもしれません。

江戸のアウトソーシング付加価値ビジネス 
 前回、江戸の「レンタル・ブティック」の話でリサイクル、リユースについてご紹介しました。洗濯屋も結構繁盛していました。江戸時代の新規産業の一つで、江戸中期にできたようです。江戸の女性は強かったこともあり、手間のかかることはあまり自分ではやらず、アウトソーシングしていたのです。大変な手間となる洗い張りなどはほとんどの女性がやらなくなってきました。その分、洗濯屋が繁盛したのでしょう。

洗濯屋だけではなく、サービス産業は江戸では結構流行っていたようです。それもそのはず、江戸には単身赴任者が多かったのです。江戸の単身者需要を当て込んで、アルバイト的に「江戸のかかあ」はいろいろと現金収入の道を考えていたようです。
 
ウジ虫も湧くような男やもめだけではなく、単身者の部屋の掃除する仕事がありました。単身男性では、繕い物もあります。これらのトータルサービスをするビジネスがあったのです。オールパックで月額いくらという料金設定でした。八百屋のかかあは、売れ残った野菜くずを漬け物パックにして売っていました。野菜として買うと8文のものが、くず野菜で16文になるのですから、こんな“うまい”話はないですよね。

すでに付加価値を考えたビジネスというかニッチ産業としてのビジネスが江戸時代にあったのです。

江戸のレンタル・ブティック 
 生地が貴重な時代ですので、褌をはけない人が多かったのです。銭湯での盗品のナンバーワンが褌でした。盗まれないように褌を頭の上に乗せて手ぬぐいで縛り付けている絵を見たことがおありでしょう。自衛策だったのですね。

褌の普及率はどのくらいなのかはわかりませんが、上方よりも江戸の普及率の方が高かったようです。高級品ということからも、下着なしの男性が多かったことは推定できます。それに対して、女性の下着といえば「腰巻き」です。腰巻きに至ってはほぼ100%の女性が身にまとっていました。ここにも江戸の女性優位が現れているのでしょうか。きもの類だけではなく、リサイクルが一般的であった江戸では、揮や腰巻きですら古着屋に出すのです。

古着屋では、それをリユースに回すこともありますが、古い腰巻きで頭巾にリフォームして販売することもあったようです。江戸の神田明神下というと銭形平次ですが、江戸のど真ん中を流れているのが、南こうせつさんで有名になった「神田川」です。

古着屋というのは、神田川沿いの柳原土手に並んでいたようで、屋台形式の店舗から、キチンとした店舗まであったようです。屋台形式ですとすぐに畳めるというメリットがあり、商売に成功したり、逆にうまくいかないと店じまいをしたりしました。
 
上方は、衣類の街でもあり、江戸に比べると品が豊富だったようです。古着のリユース需要は江戸ほどではなく、江戸の古着屋は上方から仕入れていました。古着が一般的であり、一生のうちに3~4着ほどしか消費しなかった江戸では、祝言など、ここ一番というときには「レンタル・ブティック」を利用していました。「レンタル・ブティック」というのは、「損料屋」といいました。借りて使うことにより、品の価値が下がります。それが「損料」なのでしょう。

損料屋では、着る物だけではなく、小物などの持ち物から履物まで、なんでも揃いました。
利用者が多いことから損料屋は銭湯と同様にあちらこちらにたくさんあったようで、気軽に利用していました。

江戸の女性が何をしなくても済む例として、子育てがあります。江戸では子供は「共有財産」ですから、街ぐるみで育てるために、子育てに煩わされることも少なかったのです。とにかく、江戸の女性は何もしなくても済むようにサービス産業ができていたのです。

侍パンツ? 
江戸の庶民といえば長屋住まいです。昨今では飽食の時代で、着る物がタンスの肥やしになっていますが、江戸庶民はせいぜい3~4枚です。それも一生のうちでその枚数ですから、一つのものを着た切り雀です。それも新品を買ってくるというより、親から譲り受けたり、古着屋で購入したりしたものです。 一つの着る物を大事に使います。

すり切れそうな処は事前に裏当てしておきます。袖は下ろさずにいます。江戸っ子の絵になる尻っぱしょりは、「尻っ端折り」と書くように、尻近くの端に相当する裾を守という目的もあります。すなわち、すり切れやすいのが端ですので、その部分を保護することにより、古着として販売するときの商品価値をできるだけ下げないように来ていたのです。

尻っぱしょりをするというのは、イコール褌をしているということです。褌なしに尻っぱしょりはさすがにできません。すなわち尻っぱしょりは、それそのものがステータスなのです。とにかく、当時、褌は高級品であり、ステータスシンボルの一つなのです。褌というと「越中褌」「六尺褌」がすぐに思い描かれます。

「越中褌」の名前の由来には諸説あるようですが、その一つが越中富山薬屋さんが置き薬の景品として使ったことから全国的に使われるようになったそうです。長さ100cm程度、幅34cm程度の布の端に紐をつけた下着である。一部ではクラシックパンツ、サムライパンツとも呼ばれている」

江戸っ子の上方コンプレックス 
江戸の人たちには、上方コンプレックスがあったようです。
例えば、京都の人は、昔から「都」であったことに誇りを持ち、プラス思考を強く持っていました。ほこりの裏返しがコンプレツクスで、江戸っ子は、否定的要因を肯定し、開き直おるのです。例えば、江戸の住宅事情は、上方に比べてよくありませんでした。それを、狭くて何も持たず、こざっぱりしているのが粋というのです。

その代表的な存在が、「薄着」です。江戸っ子は、冬でも木綿の布子一枚でいました。しかも尻からげで裸足という出で立ちで走り廻っていたのです。家に閉じこもって火鉢を抱え込むような行為は「恥」なのです。寒いのが粋というのはおかしな話ですが、江戸にもそのようなことをする人を「やせ我慢」といって、笑う人もいました。

要は、「滅びの美学」といいますか、「Simple is beautiful」なのです。それは上方コンプレックスに繋がっていることを、わかっている江戸っ子も多かったといえます

江戸っ子と伊達 
 江戸では、マイナス要因だと思われることをカッコよく見せられる人が「一番粋」なのだそうです。例えば頭が禿げている人が、「あの人の禿はカッコいい」と言わせれば粋になるのです。マイナスをプラスにすれば良いわけで、おなじ禿げるのであれば、ユールブリンナーよろしく、つるつるの頭にしてしまうと「粋」になります。

昨今では、背が高くてイケメンな男性が持てますが、江戸時代には、遠くから目立ってしまうので「粋」ではなく「野暮」なのです。「伊達男」という表現がありますが、服装が伊達であるということは、「バサラ」につながります。 伊達になるには、手ほどき書、すなわちマニュアルがありました。それを学ぶことによって伊達になれるのですが、「粋」というわけではありません。やつれた感じが、逆に評価されるのが江戸の粋なのです。「滅びの美学」と言っても良いのでしょうか。

「滅び」という観点から魚など食べ物は腐る寸前がおいしいというのです。

見えないところでおしゃれ 
上方の女性は、お化粧をキチンとするのが「女の身だしなみ」と考えられていました。一方、江戸では、「すっぴんの素肌」を自慢する女性が多かったのです。上方では、髪をきれいに結い上げますが、江戸では、濡れ羽色といいますか、まだしめっている、漆黒の「湯上がりの洗い髪」が粋とみなされていました。女性が櫛を横にさしている姿が「あだっぽい」といいますか、絵になりますね。

おしゃれにも上方と江戸では違いがあります。 髪型の女性は、綺麗な物を身につけ、さらに飾り付けて、「絢爛」にしていくのがおしゃれです。一方、江戸では「省略」が、おしゃれとか粋であるとか通である処に繋がります。色を省略していくと、最後に残るのは「黒」なのです。

江戸では、下着から羽織まで全部黒づくしが粋なのです。ただし、素材に懲ります。「羽織が羽二重、下が縮緬、中が紬」というところで勝負をします。れでは、外見にはおしゃれかどうかわかりません。女性がしなだれ、羽織に触るとそれが高級な羽二重であったりしてわかってきます。そうこうしているうちに、見えない部分のおしゃれがわかるのが「粋」なのです。

遠くから見て目立つのは、格好が悪いのです。触れるほど近寄ってわかる人だけにわかってもらえるのが「粋」というもの。死んでから「あれが本当の通なのだ」といわれるのが江戸っ子の粋とでもいうのでしょうか。
 
江戸男性のおしゃれ 
江戸は、男性の多い社会であったことは知られています。参勤交代で、地方から武士がやってきますし、それを当て込んで上方からは商人がビジネスにやってきました。このために男性の数が圧倒的に多く、男女比率から結婚相手を探すのは大変でした。

結婚難のために男性は涙ぐましい努力をするわけです。初物のかつおを振る舞うなどができる身分の男性ならともかく、そうでない男性はどのような努力をしていたのでしょうか。その一つが「江戸っ子美顔術」です。カミソリで剃った程度では女性にほおずりをしたときに、ちくちくさせてしまいます。肌をすべすべにするために、毛抜きでヒゲをのくのです。現代男性顔負けの努力です。

デートの前にあわてて抜いたりすると、頬が血だらけになってしまい、逆効果になることもあったようです。女性優位の時代ですから、男性の努力はヒゲ抜きだけではありません。今日なら、デートの直前にマウスウォッシュ済を使ったりしますが、当時も講習会・研修会・講演会は嫌われる大きな要素でした。そのために何度も何度もは御身がいたり、うがいをしたりと努力をします。

デートの直前には、梅の花のつぼみを噛んで、爽やかさを演出したのです。

江戸のおしゃれ 
江戸時代に庶民が着ている物は、江戸と上方はもちろんのこと、時代的に前期と後期でも大きく異なります。江戸の人が上方に旅をすると、例え着ている物を急いで着替えても、上方ですぐに「関東者」ということがバレバレです。

江戸では、享保年間(1716~1736)を境に変化をしました。それまではもっぱら上方の真似でしたが、享保以降は、着こなしも髪型も大きく変化をしました。化粧法もまたしかりです。上方では着る物はきっちりと着つけをしましたが、江戸では、はだらしく着て前がはだけてしまいました。着物の仕立ても、打ち合わせが浅いことも一因です。女も懐手をすることが多く、胸もはだけてしまいます。

柄の好みも江戸と上方では異なりました。上方の女性はきれいな色が好きでした。それに比べて江戸の女性は、どちらかというと渋めの柄を好んだ用です。「赤ぬける」という言葉があり、「赤なしで勝負する」という意味から江戸っ子は、「赤は身につけないぞ」と粋がり、「赤い色などを身につけなくても、色気が出るようにする」のが、江戸の風習です。

「垢ぬける」というのはここからきているようです。ただし「垢抜ける」という言葉は、もともとは「体を磨き込んで垢のない体にする」という意味です。もちろん、女性にとっては、最後は赤が「決め色」です。「今日こそは・・・」という、ここ一番では赤い紅をさしたり、赤い下着をつけたりして挑みます。すなわち勝負のために、「赤」はとっておく、奥の手なのです。

赤は江戸時代の女性の決め色ですが、男性の決め色は紫です。紫の襟をチラッと出すのが、粋な男の身だしなみです。着物姿の女性の赤い蹴出し(腰巻きの上に着る下着)がチラチラするのは、男性にはドキッとすることがあるのではないでしょうか。残念ながら江戸の女性は赤ではなく、無地の袖や裾からチラッと見えるのは水色なのだそうです。ただし、その道の女性は赤を使います。

江戸情緒に学ぶ 江戸の良い亭主の条件 
 江戸時代の長屋では朝ご飯は亭主が準備をしました。ご飯が炊けると「おっかあ、飯が炊けたぞ」と奥さん起こすのです。ご飯、すなわち炊きたての銀しゃりに買ってきたお総菜を付けて食べたのです。今日、モーニング・コーヒーをご主人が立てるお宅がありますが、最先端を行っているのではなく、江戸時代の二番煎じなのです。

亭主が仕事に出かけると刺身で一杯やるのがおっかあの一日の始まりです。では、何故江戸の男はそこまでやるのでしょうか。答えは・・・・・江戸時代は、女性が強かったということは、三行半は男からではなく女性からたたきつけるものだと言うことを紹介したとおりです。すなわち、女性に尽くさないと、女性の方がサッサと家を飛び出して、男は捨てられてしまうのです。
 
おっかあに、他の男へ乗り換えられないように、江戸っ子はおっかあに尽くしたのです。すなわち、江戸の亭の条件は、ご飯が上手に炊けることなのです。それだけではありません。おっかあを丁寧にマッサージするのも亭主の役目ですし、子育ても上手でないといけません。江戸は、女性にとっては天国だったのかも知れませんが、江戸のおっかあは、長屋から出ることはほとんどなかったようです。あなたは、どちらが良いですか?
 
大酒飲み大会 
江戸時代に「武蔵野」という大きな杯がありました。ススキを前景にした満月が描かれていました。この杯は一升以上もの酒が入るのです。満月にススキという図柄から「野見尽くせぬ」・・・・・「飲み尽くせぬ」というしゃれが込められているのです。相撲取りが優勝したときに飲む大杯を連想して、その大きさをイメージしてください。

この大杯を使って、八升五合もの酒を飲んだという記録があります。ただし、真偽の程はわかりません。日本酒だけではなく、焼酎もあり、実は「アラキ」今日では「アラック」と呼ばれているウォツカもありました。ロシアから北前船が運んできたのです。
 
北前船が運んだ昆布ですが、これはロシアでは海に生える雑草ですので、日本漁船が昆布を採るとそのお礼のうにしてウォツカが提供されてようです。当時は鎖国政策が採られていたので、ビジネスとしての代金は取れせんが、ウォツカが対価の一種であったといえます。すなわち、鎖国下での貿易が行われていたのです。

灘の酒が甘口に 
江戸時代の酒の”通”は「原酒」を飲んでいました。モルトウィスキーならぬ、モルト日本酒を嗜んだのです。小売店が希釈する前の原酒を樽からジューッと音を立てて升についでもらうのです。江戸っ子は、辛口の酒が好きなように誤解されがちですが、江戸の酒は、甘口でした。それも相当な甘口だったようです。

甘口であると言うことは、手をかけてある酒と解釈され、「甘口」を「うまくち」と読ませていました。上方から樽廻船で送られてきた下り酒の代表は「灘」で、珍重されていました。ご存知のように灘の酒は辛口です。樽に詰められた灘の酒は、船をゆりかごにして揺られているうちに良い具合に熟成されたのです。江戸に着くまで約20日、これがちょうど熟成期間として最適だったのです。
 
樽材である吉野杉の揮発性香油が溶け出して、マイルドな甘口になるのだそうです。灘の酒は、地元で飲むより江戸で飲んだ方がうまいと言われています。その酒が、裁量の酒とされているので、江戸っ子は甘口を好んだわけです

この酒のみ大会には、武士も町人も、誰もが参加できます。スポンサーが付いた催しものなので参加費などとみみっちいことは言わず、飲み放題です。当然スポンサーはその話題作りのためにお金を出すのですから、結果が発表されるときにはスポンサーの屋号が入ります。ちなみに「北前船」は江戸時代の中期以降、明治時代初期にかけて日本海を廻ってのビジネスです。

船主は、船を持った移動販売船といったところで、商品の仕入や船の運航など、全てのリスクを負っていました。すなわち、運輸業ではないということになるのです。商品は主に北海道や北東北から調達し、途中寄港しながら、下関を回って「大坂」(今日の「大阪」)まで運んで売りさばきました。帰りは、空船で変えるのではなく塩や酒など関西地方の物資を運んでビジネスをしたのです。

江戸女性とお酒    
三行半は女性がたたきつけるモノであること、江戸の女性は強かったのです。花見などと言うと大ぴらに飲めたのです。家でも結構飲む女性が多く、いわゆる「キッチン・ドリンカー」はすでにこの頃から始まっていたのです。主人が仕事で外出するのを送り出すと、魚屋を呼んではサクで生魚を買い、若い魚屋を相手に、茶碗酒を楽しんだりしたのです



余談
社会の成り立ちは、子供の教育からです。
先ずは、小学校に入学する前から3つのことを教えると、数年前のある雑誌に書いてありました。

1 自分の着ている洋服をたためることができること 
(自分の部屋さえきれいにできない)

2 物事を時間以内でできること             
(仕事ができないで、物事の判断が出来ない)

3 周りの人に迷惑をかけないようにすること     
(自分勝手で人のことを考えない)

この3点が出来ると大人になっても良い生活・良い大人になれるはずです。

昔の人は、誰でもこのようなことは出来ていたはずです。  







知っていますか? 『 江 戸 し ぐ さ 』 大事な物・独り言

ここ数か月、色々なことがありブログを休んでいました。 今年も「大事な物・独り言」をお知らせします。

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今年の第1回目は 『 江 戸 し ぐ さ 』 ・・・知っていますか?

「江戸しぐさ」 というのは、江戸商人の代表各の人達の考え方、口の聞き方、表情から身のこなし方などについて、美意識や感性の全てを考え、商人の生活哲学を作ったと言われています。このことは現在にも通用することと考えられます。

江戸しぐさ であるとされる例

1 傘かしげ
雨の日に互いの傘を外側に傾け、ぬれないようにすれ違うこと

2 肩引き
道を歩いて、人とすれ違うとき左肩を路肩に寄せて歩くこと

3 時泥棒
断りなく相手を訪問し、または、約束の時間に遅れるなどで相手の時間を奪うのは重い罪(十両の罪)にあたる。 


4 うかつあやまり
たとえば相手に自分の足がふまれたときに、「すいません、こちらがうかつでした」と自分で謝ることで、その場の雰囲気をよく保つこと

5 七三の道
道の、真ん中を歩くのではなく、自分が歩くのは道3割にして、残りの7割は緊急時などに備え他の人のためにあけておくこと

6 こぶし腰浮かせ
乗合船などで後から来た人のためにこぶし一つ分腰を浮かべて席を作ること

7 逆らいしぐさ
「しかし」「でも」と文句を並べ立てて逆らうことをしない。年長者からの配慮ある言葉に従うことが、人間の成長にもつながる。また、年長者への啓発的側面も感じられる。

8 喫煙しぐさ
野暮な「喫煙禁止」などと張り紙がなくてとも、非喫煙者が同席する場では禁煙をしない

余談
日本人は、人に迷惑をかけないと言う社会は昔から出来上がっていたと言うことです。良い伝統はいつまでもつづいて欲しいですね。

ちょと、畳の上で ゴロ ゴロ して考えてみませんか? 畳の良さがわかるはずです。
 
これぞ、日本人の習慣




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